時空を超えて辿る輝きの道
生野から飾磨へ
かつて生野鉱山と飾磨津を結んでいた、銀の馬車道。
それは、日本で一番最初の「舗装」という概念をもって作られた道路。
明治の幕開けとともに欧米列強に「追いつけ追い越せ」と、
若き日本が挑んだ前人未到のプロジェクトでした。
日本で初めての「高速産業道路」である銀の馬車道の歴史は、
揺るぎない独立国家を目指した新生日本の歩みそのものであり、
近代国家への成長の物語です。
かつて生野鉱山と飾磨津を結んでいた、銀の馬車道。
それは、日本で一番最初の「舗装」という概念をもって作られた道路。
明治の幕開けとともに欧米列強に「追いつけ追い越せ」と、
若き日本が挑んだ前人未到のプロジェクトでした。
日本で初めての「高速産業道路」である銀の馬車道の歴史は、
揺るぎない独立国家を目指した新生日本の歩みそのものであり、
近代国家への成長の物語です。
黒船の来航から十五年。前年に大政奉還、王政復古と明治の改革がおこなわれた慶応四年(1868年)一月、西園寺公望、黒田清隆らが生野銀山を訪れ幕府の支配下に置かれていた生野代官所を接収。浸水に眠っていた鉱山に明治の幕開けが告げられます。
生野銀山を押さえた明治新政府は採掘の可否を見極めるべく調査、検討を開始すると共に同年九月「鉱山官行ノ議」を建議。生野は官営鉱山として運営されることとなり、「お雇い外国人」である鉱山技師ジャン=フランソワ・コワニエと、その通訳として朝倉盛明が派遣されます。
入念な調査の結果、生野鉱山は従来の人力、手作業を主としたやり方ではなく、火薬や軌道敷設、機械設備を導入した近代的な鉱山運営をおこなえば、これまで以上の生産量を確保することは可能であると判断。改元を迎えての明治元年となった十二月には鉱山司生野出張所が置かれ、日本で最初の官営モデル鉱山としての再建計画が始動することとなります。
新政府にとって何よりも急務だった、産業の振興と財政基盤の確立。西洋の優れた技術や製品を買うために大量の資金を必要とした明治政府は金貨、銀貨の源となる鉱山の開発に力を注ぎつつ、製鉄、鉄道、電信、造船など基幹産業の官営化を緊急の課題として、軍事工業と官営工業を中心に欧米の生産技術や制度を導入,急速な工業発展を図る「殖産興業政策」を掲げ、資本主義育成を推進。欧米列強の脅威に屈することのない独立国家を目指して果敢に邁進していきます。
生野鉱山本部全景
ジャン=フランソワ・コワニエ / 朝倉盛明
【薩摩藩英国留学生】
日本が鎖国中だった元治二年(1865年)に薩摩藩がおこなった「薩摩藩第一次英国留学生」は、文久三年(1863年)の薩英戦争において英国の巨大な海軍力を目の当たりにした島津斉彬が欧米先進諸国の産業や近代的な技術に関心を抱くとともに、未来を担う人材育成の必要性を痛感したことに始まり、薩英戦争で英国軍の捕虜となった経験を持つ五代友厚によって計画されます。人員は洋学養成機関、「開成所」の学生を中心に選抜され、同所の助手であった朝倉盛明(当時23歳)をはじめ、13歳から31歳のいずれも藩の期待を担った若者達19名が参加しました。後に鉱山技師ジャン=フランソワ・コワニエが来日することとなる縁も、この旅の途中、ブリュッセルに於いて五代友厚とモンブラン伯爵による商社設立の調印が交わされたことに起因しています。
五代友厚
近代化改革によって鉱山の再生を目指すコワニエ達は最初に鉱石を精密に分析する作業に着手して、以前の灰吹金には金分が分離されずに含まれていたため、低品位に扱われたことを発見します。これにより生野鉱山は当初計画していた銅鉱中心の事業から銀鉱採掘に方向転換。かつて「銀谷(かなや)」と呼ばれ賑わった中世の頃のように、ふたたび銀山としての歴史を歩み始めます。
また、人材育成においても近代化改革がおこなわれ、政府は当時最先端の技術と知識を身につけた鉱山師を育てるべく、生野に鉱山学校(修学実験場)を設立。採鉱や精錬の経験を積みながら鉱山学の理論も兼ね備える実質的な教育を実施することによって優秀な人材を多く輩出し、その後の日本鉱業発展の礎を築きます。
昔の鉱山入り口
史跡生野銀山の入り口
朝倉盛明とコワニエを始め多くの人々が努力と情熱を注ぎ、大型器械の導入を軸に再建計画を進めた生野銀山は、明治九年(1876年)五月にいよいよ大器械の落成を迎え、明治元年十二月の官営開始から九年間に及んだ生野鉱山の近代化プロジェクトは完成の暁を見ることとなります。
しかし、鉱山の始動を控えた生野鉱山と明治政府には、もう一つ達成しなければならない重要なプロジェクトが存在しました。それは、物流手段の近代化を達成すること。すなわち、現在「銀の馬車道」と呼ばれる日本初の高速産業道路「生野鉱山寮馬車道」の開通です。
近代化を達成した鉱山の本格稼働に伴う必要物資や鉱産物の輸送増加が見込まれるのは明らかであり、大量の物資を輸送する「物流手段の確保」は鉱山の再生と共に、欧米列強に屈することなく独立国家への道を歩まんとする明治日本の悲願でした。
当時の生野から飾磨津までの道は、人が移動する需要も少なく、「但馬道」「生野街道」と呼ばれた道でも、その幅はわずか2m程度。雨が降れば泥に沈み、細く整備されていない道しか知らない当時の人々にとって、生野から飾磨津までの輸送ルートの構想〜実現は想像を絶する困難なものだったに違いありません。
そもそも日本は、その国土の七割以上が山地で、平坦な土地が少なく、起伏の多い山や谷、峠の存在が内陸部への物資輸送を困難なものとしていました。また、兵力や武器の大量輸送を可能とすることは、幕府を脅かすことに直結するといった、江戸時代まで続いた幕藩体制下の制約があったことや、古来から「馬車」の文化が根付かなかったこともあり、移動手段は「徒歩」を主流として、その他には「駕籠(かご)」があるくらい。
山越えは峠道を行き交うしかなく、河川を渡る場合は「渡し船」となり、物資の輸送においては人か馬に背負わせて運ぶか、河川を利用した舟運を用いることが一般的でした。
【飾磨津】
「飾磨津」とは飾磨の海岸を指し、船が着き客や荷物を渡したのでこの名となったもの。室町〜安土桃山時代となる十六世紀頃から、流通経済の発展に伴って物資輸送の主役は海路となり、軍師・黒田官兵衛と秀吉らによって飾磨は播磨の輸送拠点として発展の道を歩みます。そして、江戸時代になると北海道から日本海〜瀬戸内を経由して大阪、江戸に向かう北前船も寄港するようになり大いに栄えました。生野、但馬の街道、船場川とつながり、大城下町・姫路の最重要輸送基地として確立された飾磨津が、その後背地に広がる地域の進化・発展に大きく関与したことは言うまでもありません。風土記説話に伝わる昔から、播磨国の中心として開拓された飾磨が、気候も良く、災害も少なく、豊かな山に囲まれた市川下流のデルタ地帯であり、人々にとって大変に魅力的だったことが想像できます。
馬車で賑わう飾磨
時の為政者にとって重要な財源だった銀を産出する鉱山の多くが山深い地にある中、生野鉱山は近くに城下町・姫路を擁し、大きな流通拠点である瀬戸内海に面した飾磨津まで約49km、神戸、大阪といった市場となる都市からも近く、また市川沿いは低地地形で利便性が高いという好条件だったため、日本で最初の本格的な「産業道路」の整備は、この地で産声をあげることとなります。
鉱石の輸送手段として、最初に検討されたのは「鉄道」でしたが、明治五年(1872年)に日本で初めて開通した、新橋〜横浜間(約29km)の建設費が二百八十万円余りという巨額な費用であったため、生野〜飾磨間(約49km)の場合、その距離の長さと、途中に横たわる生野峠に工事の難航が予想されること、また当時の生野鉱山の輸送物資の需要見込みからも費用対効果は低いとされ断念されます。
続いて、市川を活用した舟運計画が検討されますが、新たな掘削と浚渫工事の難しさと費用、そして米作りに水が必要な時期には河川は利用できないという大きな欠点があり見送られました。最終的に昔からある街道を元にして馬車が通れる最新式の道路に改修する道路案が採用されました。
そうして、「生野鉱山寮馬車道」(以下:銀の馬車道)は、フランス人技師長レオン・シスレーの指導のもと、明治九年(1876年)に完成。その「道」としての輸送能力はもとより、工事によって得られた最新の土木技術のノウハウや西欧の生活様式や文化は瞬く間に「銀の馬車道」を通じて広く伝わることとなり、沿線地域の発展を力強く牽引していくものとなります。
日本で初めての舗装がなされた「馬車専用道路」を目の当たりにした沿道の人々は、それまでの曲がりくねった細い道とは全く異なる、幅が6〜7mもあるまっすぐな道を見て大いに驚いたという記録が残っており、また、大八車や四輪の馬力が行き交う街道の見たこともない風景に、馬車道沿線の人々は近代化を肌で感じながら、産業発展のみならず、文化の到来を深く感じたと伝えられています。
【近代化の喜び】
明治九年(1876年)五月二十三日。生野鉱山の本格始動となる大器械落成式(鉱山開業式)は時の工部卿である伊藤博文らを迎え、街路には2,000個の提灯、祝いの餅まきは七石五升(約1,125kg)、踊りに「見石引き」と盛大に執り行われることとなり、生野は大変な賑わいとなりました。同年に完成した「銀の馬車道」の道中、最も難関であったと言われている薮田村から砥堀村に渡る93間(約167m)の薮田橋は馬車道竣工に際し「生野橋」と名を改められ、橋のたもとに建てられた「馬車道修築碑」には、重責を担った朝倉盛明により、その経緯や尽力した人々の名前とともに、当時の日本では未曾有の事業であったことが記されています。
馬車道修築碑
速く、安全に生野と飾磨津を結ぶ夢の道路であった「銀の馬車道」は、修築の責任者である朝倉盛明が経済性を最も重視していたことから、「以前から人が行き交うルートを踏襲する」「沿道に茶屋や商店があり利便性が高く追加の整備が不要」「当時の神崎郡の中心地である辻川を通過する」などの要素から、山を切り開くなどの大きな工事を避けつつ市川に橋を架けるという案が採用され現在に伝えられている形となりました。
朝倉盛明は工部省に提出する資料のなかで「銀の馬車道」の費用と効果について、新しい舗装道路となる修築後にはコストが1/8程度に削減することが可能だと試算。新たな道路と従来の道路の輸送経費を詳細に比較検討した結果、勝算を得た計画は実行に移されます。
日本初となる、道路に「舗装」という概念を取り入れ、当時の技術では大変難しいとされていた橋を大小合わせて二十二本も架けた馬車道は、経済性、社会性、利便性を考慮しながら絶妙なバランスで道路計画が策定され、官民の協調の元、着工の明治六年(1873年)から三年間に渡って修築工事が力強く進められ、明治九年の飾磨津物揚場と馬車道の完成を以って日本初の壮大なプロジェクトは無事に完遂されるに至りました。
現在も見ることのできる、生野橋のたもとに建てられた「馬車道修築碑」には、「延長十二里十五丁石を畳み砂を敷き高低は平均し川沢に橋を架し夙夜怠らず」と記されており、約49kmの全行程が丹念に舗装された革新的な道路であったことが伺えます。
生野鉱山前の馬車道
生野鉱山と神子畑鉱山の間を行き来した馬車鉄道
昭和初期に活躍した馬力
【銀の馬車道のここがスゴい】
約49km全行程において、馬が一定の速度で無理なく走れるよう設計された「銀の馬車道」は、生野〜飾磨津の間で直角に曲がるところはわずかに2か所。極端な高低差を避けた緩勾配の道路となっていて、唯一の難所となる真弓峠では縦断勾配を緩やかにするためにS字カーブを使用。道路延長を長く作られています。対面通行に充分である5.4m〜10.8mの幅を持つ道路は、中世から馬車道の技術を育んだヨーロッパの技術である「マカダム式舗装」を採用、あら石、小石、玉砂利を3層に積むなどして突き固めた路面は、雨などの天候に左右されない排水性の高い堅牢な設えとなっており、他の箇所においても、地勢や状況に合わせてそれぞれに設計されている基礎など、「頑丈さ」「使いやすさ」を求めた細やかな心配りが感じられます。
神河町吉吉冨川原に唯一現存する馬車道
明治九年(1876年)の完成から新生日本の発展と共に、地域の文化振興に大きく寄与した銀の馬車道は播但鉄道の開通とともに徐々にその役割を終えます。
かつての馬車道は、後に経路を変更した箇所もありますが、そのままアスファルト舗装へと改修され県道や国道の一部になったものや古く趣のある町並みの生活道路として現在も大部分が利用されています。
そうして平成十九年(2007年)「銀の馬車道」は近代化産業遺産に認定、平成二十四年(2012年)「銀の馬車道プロジェクト」は日本ユネスコ協会連盟の「プロジェクト未来遺産」に登録。続いて平成二十九年(2017年)には、同じく近代日本を牽引した「鉱石の道」と共に日本遺産の認定を受けました。
【銀の馬車道のコスト】
銀の馬車道を修築するための費用は当時のお金で88,384円。内訳は建設費用が52,500円(1mにつき1円50銭)、道路用地と沿線の民家の立ち退き費用などに25,884円。技師長のシスレーの手当てや旅費、その他、役人の手当てが10,000円というものでした。合計金額を現在のお金の価値に換算してみると、なんと35億円という規模になり、明治新政府が殖産興業を大切な目標としていたのかということと、生野鉱山に向けた期待の大きさが伺えます。ちなみにシスレーの月給は300円で、こちらも現在の貨幣価値に換算すると1千200万円となり、お雇い外国人がいかに厚遇されていたかが想像できます。また、馬車道によって削減された運搬コストは、物資1トンあたり「人夫を使って凸凹道で十七円二十九銭、道をつくれば僅か二円。」と、約88%ものコストダウンが実現されたことが伝えられています。※貨幣価値の換算では当時の金額を4万倍にして計算しています。
※当時の金額を4万倍にしています。
大同 2年(807) | 生野銀山が開坑。 |
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寛和 元 年(985) | 太古「飾磨江」と称していたが、飾磨津と改称。 |
天文11年(1542) | 山名祐豊による開発後、本格的な採掘が始まる。 |
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天正 6年(1578) | 織田信長が生野に代官を置く。 |
天正10年(1582) | 豊臣秀吉が生野に代官を置く。 |
慶長 5年(1600) | 徳川家康が但馬金銀山奉行を置く。 |
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亨保 元 年(1716) | 奉行を廃し代官を置く。 |
明治 元 年(1868) | 生野銀山が日本初の政府の直営鉱山になる。 朝倉盛明とコワニェが生野銀山に赴任し、改革に着手。 |
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明治 4年(1871) | 市川流域で農民一揆が発生、生野鉱山が焼き討ちに遭う。 |
明治 6年(1873) | レオン・シスレーを技師長に馬車道の建設が始まる。 |
明治 8年(1875) | 初代盛明橋/初代生野橋が完成。 |
明治 9年(1876) | 飾磨津物揚場が完成。 馬車道が完成。 |
明治12年(1879) | 馬車道が国から兵庫県に移管。 |
明治22年(1889) | 生野銀山は政府直轄から宮内省御料局へ。 「飾磨津」を「飾磨港」と改称。 |
明治28年(1895) | 播但鉄道(生野~飾磨)が開通。 |
明治29年(1896) | 生野銀山は民営化され三菱合資会社に。 |
明治34年(1901) | 播但鉄道(生野~新井)が開通。 |
明治39年(1906) | 播但鉄道が全通、国有化され「国鉄・播但線」に。 |
大正 2年(1913) | 二代目生野橋が完成。 |
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大正 6年(1917) | 生野鉱山附属直島製錬所(香川県)ができる。 |
大正 9年(1920) | 馬車道が廃止される。 |
昭和 5年(1930) | 二代目盛明橋が完成。 |
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昭和43年(1968) | 三代目生野橋が完成。 |
昭和48年(1973) | 生野銀山(鉱山部門)閉山。 |
平成11年(1999) | 沿線市町で「銀の馬車道」を活用した取組がスタート。 三代目盛明橋が完成。 |
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平成18年(2006) | 第1次「銀の馬車道」活用推進計画策定。 |
平成19年(2007) | 「銀の馬車道ネットワーク協議会」設立。 「銀の馬車道」が近代化産業遺産に認定。 |
平成20年(2008) | 商標「銀の馬車道」登録。 |
平成23年(2011) | 第2次「銀の馬車道」活用推進計画策定。 |
平成24年(2012) | 「銀の馬車道プロジェクト」が日本ユネスコ協会連盟の「プロジェクト未来遺産」に登録。 |
平成28年(2016) | 第3次「銀の馬車道」活用推進計画策定。 |
平成29年(2017) | 「銀の馬車道・鉱石の道」日本遺産認定。 日本遺産「銀の馬車道・鉱石の道」推進協議会設立。 |