日本遺産「播但貫く、銀の馬車道 鉱石の道」~資源大国日本の記憶をたどる73kmの轍~

銀の馬車道 ゆかりの人々

Related Peoples

「銀の馬車道」「鉱石の道」は多くの偉人が行き交った道です。
生野銀山や周辺鉱山の開発のため、海外からも国内各地からも時代をリードし支えた人々が行き交いました。
また、「銀の馬車道」沿道各地域からは、多くの偉人を輩出しています。
これも、「銀の馬車道」を通った新しい文化や文明に触発され、広く世界と繋がったことによるからか、
進取の気性に富んだ人々がさまざまな分野で活躍しています。

銀の馬車道ゆかりの人々

朝倉 盛明

朝来市教育委員会提供

朝倉 盛明(1843-1924)

朝倉 盛明

朝来市教育委員会提供

薩摩藩出身。医学を学んだ後、薩摩藩英国留学生に参加。イギリスからフランスに渡り、語学、鉱山学を学び帰国。薩摩藩開成所フランス語教師を経て、明治政府の名を受け、明治元年(1868年)25歳の時にお雇い外国人であるコワニエと共に生野に入る。最新の精密な鉱石の分析技術や、ポンプを使用した排水、西洋式の器械や火薬を使った採掘法などにより生野鉱山を再生させて近代化に成功。以来25年間にわたり、国内外からの大型機械の導入や、新しい輸送手段となる馬車専用道路の建設など、生野鉱山の発展に大きく貢献する。初代生野鉱山局長。

朝倉 盛明の経歴

朝倉 盛明の経歴
天保14(1843) 薩摩藩士の二男として出まれ幼少期から医術、蘭学を修得
元治 2(1865) 藩命によりイギリスに留学
慶応 2(1866) イギリスからフランスに渡り、フランス語、鉱山学を学ぶ
慶応 3(1867) 帰国後、薩摩藩開成所のフランス語学教師に就く
明治元(1868) フランス人鉱山技師コワニェの通訳として生野に入り、生野銀山の再開発に取り組む
明治 5(1872) 工部省鉱山助
明治 6(1873) レオン・シスレーを技師長として「銀の馬車道」の工事着工
明治 8(1875) 初代盛明橋、初代生野橋(旧薮田橋)が完成
明治 9(1876) 飾磨津物揚場が完成 「銀の馬車道」が完成
明治16(1883) 生野鉱山局長
明治19(1886) 生野鉱山局事務長
明治22(1889) 生野支庁長
明治26(1893) 病気を理由に辞職、大阪に転居、その後、京都市内に居住
明治28(1895) 播但鉄道(生野~飾磨)が開通
大正 9(1920) 「銀の馬車道」廃止
大正13(1924) 京都にて死去 81歳
ジャン=フランソワ・コワニエ(1837-1902)

朝来市教育委員会提供

ジャン=フランソワ・コワニエ(1837-1902)

ジャン=フランソワ・コワニエ(1837-1902)

朝来市教育委員会提供

1837年、フランスの鉱山都市サン・テチェンヌ生まれ。国立鉱山学校にて学んだのち、鉱山技師としてヨーロッパ、アメリカなどにて経験を積む。慶応3年(1867年)に薩摩藩の招聘により来日。幕府体制の崩壊後、明治元年(1868年)に明治新政府と契約し直し、朝倉盛明とともに生野入り。火薬爆破の導入、軌道の敷設、巻き揚げ機の設置など、先進技術により鉱山の生産力を増強、近代化に尽力。また、実学的な鉱山教育をおこなうべく明治2年に修学実験所を開設。コワニェに学んだ多くの技術者が、その知識とともに全国に広がり、明治日本の発展を支えることとなる。

生野在勤:明治元年(1868年)6月~明治10年(1878年)1月

レオン・シスレー

朝来市教育委員会提供

レオン・シスレー(1847-1878)

レオン・シスレー

朝来市教育委員会提供

土質家、鉱山技師。日本初の舗装道路であり、流通の大改革となる「銀の馬車道」のルート設計をおこない、ヨーロッパで普及していたマカダム式舗装をはじめ、最先端の技術と工夫をとり入れた馬車道の建設を監督。内陸の生野鉱山から瀬戸内海に面した飾磨津まで、約49kmの全行程において、高低差を少なく、勾配には屈曲を設けて緩やかにし、より速く、より安全に行き来できる、水はけの良い丈夫な馬車専用道路を作り上げた。また、馬車道の発着点である飾磨津物揚場(姫路市)の建築設計もおこなっていた。コワニェの義弟。

生野在勤:明治6年(1873年)4月~明治10年(1878年)1月

高島 得三(高島 北海)

下関美術館蔵

高島 得三(高島 北海)(1850-1931)

高島 得三(高島 北海)

下関美術館蔵

嘉永3年(1850年)萩藩の藩医の子として生まれる。明治5年(1872年)に生野鉱山寮に出仕、修学実験場にてコワニェ、シスレーらにフランス語、地質学、植物学び、生野鉱山での勤めを辞した後も生野に残り、通訳を務めたほか、コワニェに付き添って日本各地の地質調査をおこない、明治7年(1874年)には地質図として日本初となる「山口県地質図説」「山口県地質分色図」を著すなど日本の近代化に貢献。そののち、日本画家として大成、高島北海を名乗る。 明治の偉人乃木希典とは長州藩の藩校、明倫館にて同窓。

内藤 利八

市川町文化センター所蔵

内藤 利八(1856-1921)

内藤 利八

市川町文化センター所蔵

安政3年(1856年)2月6日生まれ。政治家、実業家。明治20年(1887年)に浅田貞次郎らとともに「銀の馬車道」を馬車道鉄道化する計画を兵庫県知事に提出。のちに計画は蒸気動力に変更され、播但鉄道(現JR播但線)を設立。発起人の一人となり、用地買収などで重要な役割を果たすとともに、私財を投じ開設に尽力する。 播但鉄道は明治27年(1894年)、姫路〜寺前間が開通。内藤はその後、社長に就任するほか、電力事業や銀行、紡績会社の設立に参画、播磨の経済発展に寄与。 市川町の甘地駅前公園にはその功績を讃えた顕彰碑が建てられている。

浅田 禎次郎

浅田 禎次郎(1855-1942)

浅田 禎次郎

安政2年(1855年)、福本藩士の四男として誕生。17歳の時に代々生野代官所に仕えた浅田家の養子となり、以降、鉱山の発展に力を注ぎ、人々の信頼を集め銀山廻り11町村の戸長に就任。その後、兵庫県議会議員を経て衆議院議員となり、国政に従事。明治29年(1896年)に鉱山が民間に払い下げとなる際には、町民の代表として御下賜金の交付に取り組む。また、播但鉄道の設立発起人や生野銀行の創設頭取などを務めるほか、町政の振興、近代化の推進など郷土の発展に尽す。姫宮神社の公園には浅田貞次郎翁の銅像が設置され、その功績を現在に伝えている。

柳田 國男

福崎町教育委員会提供

柳田 國男(1875-1962)

柳田 國男

福崎町教育委員会提供

明治8年(1875年)生れ。農務官僚、貴族院書記官長、枢密顧問官を務めるほか、民俗学者として活躍。日本民俗学の父と呼ばれ「遠野物語」をはじめ多数の著作を著す。生家は「銀の馬車道」沿線である現在の福崎町辻川にあり、馬車道を行き交う様々な情報に好奇心を大いに育んだといわれています。
「自らの民俗学の原点」と評した生家は現在、福崎町立「柳田國男・松岡家記念館」の西隣に移築・保存されています。
文化勲章受章、最晩年に名誉市民第1号。没後に正三位勲一等、旭日大綬章を受章。

志村 喬

市川町文化センター所蔵

志村 喬(1905-1982)

志村 喬

市川町文化センター所蔵

明治38年(1905年)現在の朝来市生野町、口銀谷の生野鉱山社宅(甲社宅)に生まれる。父は三菱生野鉱業所の冶金技師で生野鉱山に勤務。舞台俳優から映画俳優となり、昭和18年(1943年)、黒澤明の第1回監督作品『姿三四郎』で老柔術家・村井半助を演じて以来、黒澤作品には欠かせない存在として、21本の黒澤作品に出演。「黒澤明監督作品には欠かせない俳優」といわれるに至り、昭和27年にはNYタイムズに「世界一の名優」と絶賛された。「志村喬記念館」では幼少期の暮らしや往時の雰囲気が感じられる復元社宅、遺品などが展示されています。

鉱石の道ゆかりの人々

池田 草庵

養父市教育委員会提供

池田 草庵(1813~1878)

池田 草庵

養父市教育委員会提供

文化10年(1813)に養父市八鹿町宿南の農家に生まれる。弘化4年(1847)に宿南に青谿書院を開塾し、明治11年(1878)に66歳で亡くなるまで、終生自身の学究と教育に力を尽くし、「但馬聖人」と称される。生野代官所の横田新之丞代官は慶応元年(1865)に息子2人を青谿書院に入塾させ、草庵は慶応2年(1866)3月に生野に10日間滞在し、生野代官所で講義をしている。入門者は30か国から673人を数え、門人には浜尾新(東京帝国大学総長、文部大臣)、原六郎(銀行家)、北垣国道(京都府知事、北海道長官)などがいる。また、門人の藤本市兵衛は生野に私塾明徳館を開いた。青谿書院は現在も塾舎が残っており、蔵書などの資料と共に兵庫県指定文化財となっている。

大島 道太郎

養父市教育委員会提供

大島 道太郎(1860~1921)

大島 道太郎

養父市教育委員会提供

洋式高炉による近代製鉄を日本で初めて成し遂げ、佐渡鉱山の鉱山局長などを歴任した大島高任の長男として岩手県に生まれる。自身も東京帝国大学理学部採鉱冶金科を卒業後、ドイツのフライベルク鉱山大学に学び、帰国後は全国の鉱山の近代化に取り組んだ。明治22年(1889)、御料局の要請に応じて不振に陥っていた生野鉱山に着任し、「生野鉱山鉱業改良意見書」をまとめた。この意見書は採鉱・選鉱・製錬などの技術・設備の多岐にわたり、その中には生野と神子畑間の馬車鉄道の建設も含まれる。世界の最新技術を取り入れた鉱山再開発の計画書であり、生野鉱山に明治期二度目の革新をもたらした。のちに、大阪製錬所所長、官営八幡製鉄所技監を務めるなど、日本の鉱業発展に多大な足跡を残している。

平林 武

養父市教育委員会提供

平林 武(1872~1935)

平林 武

養父市教育委員会提供

明治5年(1872)、兵庫県神戸市に生まれる。東京帝国大学理科大学地質学科を卒業後、東京帝国大学助教授、農商務省技師を経て、大正7年(1918)に東京帝国大学工科大学教授となった。日本全国の鉱床の調査研究を行い、明延の調査では、明治41年(1908)に鉄マンガン重石(タングステン)を発見し、明治42年に当時は低品位の亜鉛鉱として捨てられていたズリの中の鉱石を大学に持ち帰り、渡辺渡と顕微鏡検査を行い、錫石であることを明らかにした。錫石発見の日として日記に記された明治42年4月27日は、明延鉱山が日本最大の錫鉱山として発展する端緒となった日であり、日本の鉱業史に残る重大な発見日となった。平林は鉱床学を研究する学者として多くの成果を残し、鉱業の発展に貢献した。

勝部 郁男

養父市教育委員会提供

勝部 郁男

勝部 郁男

養父市教育委員会提供

三菱鉱業株式会社に入社後、昭和23年(1948)から昭和29年(1954)頃に明延鉱業所工作課神子畑機械工場に配属された。明延鉱業所では、一円電車「白金」・「くろがね」を設計した。技術者として明神電車や神新電車などの鉱山車両の設計・施工・改良を担当し、「一円電車の父」と称される。直島製錬所建設部長や三菱金属株式会社工務部長を務め、昭和57年(1982)から10年間、大手興産株式会社(現:三菱マテリアルテクノ株式会社)の社長を務めるなど、鉱山を含め日本の産業の発展に寄与した。設計を手掛けた「白金」や「くろがね」は他の6両の車両と共に、「明神電車車両」として、兵庫県指定文化財となっている。

多久 誠五

養父市教育委員会提供

多久 誠五

多久 誠五

養父市教育委員会提供

昭和50年(1975)、三菱金属株式会社明延鉱業所の次長として赴任し、昭和54年(1979)に明延鉱業株式会社の社長に就任した。黒字経営によって鉱山(ヤマ)を守り抜く強い決意で鉱山経営にあたり、採鉱の効率化のため、トラックレス方式を導入し、スキップ立坑や新幹線と呼ばれる鉱石運搬軌道への出鉱システムを開発した。しかし、国際的な非鉄金属価格の低迷と国際スズ協定の崩壊、プラザ合意後の急激な円高により、昭和62年(1987)に明延鉱山は閉山した。閉山の挨拶では、「私たちの明延鉱山は閉山しますが、ここには地下資源がまだ存在します。現実にあるんです。いつの日か再び見直される日が必ず来ると私は確信しています。これは私の夢です。」と話した。12年にわたり明延鉱山の開発と経営を牽引した。

田辺 平学

養父市教育委員会提供

田辺 平学(1898~1954)

田辺 平学

養父市教育委員会提供

京都府出身。東京帝国大学工学部建築学科を卒業後、神戸高等工業学校(現神戸大学工学部)、東京工業大学で教授となった。昭和24年(1949)、耐火・耐震・耐久性に優れた建築として、「組立鉄筋コンクリート構造」(プレキャストコンクリート工法、プレコン建築)を開発し、鉄筋コンクリート構造の普及、都市防災の推進に努めた。
明延では昭和29年(1954)、北星地区にプレコン社宅8棟を建築した。日本最古級のプレコン建築である。昭和30年に明延病院、昭和32年に協和会館、神子畑小学校体育館など、大型のプレコン建築が作られ、田辺博士の理論を実践した。明延鉱山が建設したプレコン建築は、都市の近代化の画期を示す記念碑となる重要な存在となった。

薩摩藩英国留学生

薩摩藩は、鎖国中の元治2年(1865年)、欧米先進諸国の産業や近代的な技術への関心の高まりと、優れた人材を養成する必要性をから、五代友厚の引率のもと、のちに初代生野鉱山局長となり「銀の馬車道」建設を監督した朝倉盛明を含む若者19名を英国に派遣しました。選抜された留学生はイギリス、フランスなどで多くを学び、その経験と知識は日本の近代化を進める大きな一歩となりました。
その出港地となった鹿児島県いちき串木野市の羽島地区では、毎年、留学生の偉業を称える「黎明祭」を開催。陣羽織を着て薩摩藩英国留学生に扮した地元羽島の小中学生が,国禁の海外渡航に意を決して臨んだ当時の留学生の覚悟を思わせる堂々とした演技で、それぞれ鹿児島弁と英語で留学生の紹介をおこなっています。
また、同市では日本の近代化に貢献した彼らの功績を継承し、地域文化・観光振興に活用するため、薩摩藩英国留学生記念館を開館。留学の旅と帰国後の人生についてご紹介、留学生の歴史的背景やそれぞれの葛藤、驚きや戸惑い、そして体験や学びの成果を現在に伝えています。

  • ロンドン到着後の薩摩藩英国留学生たち(盛明は後列左端)

    ロンドン到着後の薩摩藩英国留学生たち (盛明は後列左端)

  • 薩摩藩英国留学生記念館

    薩摩藩英国留学生記念館

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