日本遺産「播但貫く、銀の馬車道 鉱石の道」~資源大国日本の記憶をたどる73kmの轍~

鉱石の道の歴史

History

日本の鉱山史を体感する
鉱山エリア
“鉱石の道”

国を豊かにする金属を産み出し、日本の近代化の礎となった南但馬の鉱山
生野鉱山・神子畑鉱山・明延鉱山・中瀬鉱山
明治維新後、官営生野鉱山が中心となり、国家プロジェクトによる技術革新への挑戦
鉱山が明治・大正・昭和と日本の近代化を牽引し、そして採掘を終え地域は衰退
しかし、鉱山が育んだ独特の技術や魅力が輝いています
これらの鉱山エリアは、鉱石、技術、ひと、文化でつながる“鉱石の道”と呼ばれます
今も残る鉱山遺産や鉱山町の景観、地域の人々を通じ、日本の鉱山史を辿ります

1
Episode

近代化日本の鉱山開発の原点。

明治維新後、日本初の官営鉱山となった生野鉱山、神子畑鉱山、明延鉱山、中瀬鉱山は、独立国家の確立と産業の近代化、新政府の財源確保など多くの課題を達成するための国家プロジェクトとして、「お雇い外国人」として多くの外国人技師を招聘し、西洋の進んだ鉱山技術はもとより、道路舗装や架橋など当時の世界のさまざまな最新技術が導入されました。

特に生野鉱山には、機械式精錬技術、本格的な火薬による採鉱方法である発破法の他、鉱業用送水路やダム建設(水力の動力利用・蒸気機関)、トロッコ軌道(鉱山鉄道)の敷設、日本最初の鉱山学校の設立など多くの「日本初」の試みが導入され、近代化日本の鉱山開発歩みが、ここ但馬の地から始まりました。

明治4年(1871年)になると銀貨と金貨が日本の基本通過となり、外国貿易専用の一円銀貨も登場します。その原材料となる金・銀や、銅・錫・タングステン・亜鉛など多数の金属の生産地として但馬地域は日本経済を支えることとなります。

明延から神子畑まで鉱石を運んだ明神電車(昭和61年頃)

生野から中瀬に広がる
但馬の鉱山エリア

「鉱石の道」とは、生野鉱山・神子畑鉱山・明延鉱山・中瀬鉱山に関わる産業遺産群のことです。これらは兵庫県北部の但馬地域にあり、全国有数の鉱山エリアとして、明治・大正・昭和時代の日本の近代化を支え、鉱山によって様々な伝統文化や地域固有の歴史が育まれてきました。
平成16年(2004年)に生野・神子畑・明延という3鉱山エリアが「鉱石の道」と命名され、現在は中瀬を含めた4鉱山エリアとなりました。「鉱石の道」エリアでは、金・銀・銅・錫・アンチモンなどの金属を、江戸時代から昭和時代まで日本最大規模の鉱山として採掘してきました。今も残る鉱山遺産とともに鉱山町の景観、歴史、生活文化などの様々な地域の姿を通じて、日本の鉱山史を丸ごと体感することができます。

明治維新を迎えると、明治元年(1868年)から明治29年(1896年)まで、明治政府は生野鉱山など4鉱山を官営鉱山とし、生野・神子畑・明延・中瀬を一つの鉱山エリアとして開発しました。
明治9年(1876年)には生野から飾磨港までの馬車道が完成しました。さらに明治18年(1885年)生野から神子畑まで馬車道が完成、明治24年(1891)には馬車鉄道(鉱山軌道)に整備しました。そして明治29年(1896年)、4鉱山は明治政府から三菱合資会社に経営が移ります。
明治34年(1901)、播但鉄道が飾磨港から生野駅を通って、神子畑鉱山のある新井駅まで開通しました。大正9年(1920)、生野鉱山本部から支庫(旧生野駅)まで電気機関車の専用軌道が完成しました。

明治42年(1909年)、明延鉱山で錫鉱石が発見され、日本最大の錫の鉱山として発展したことから、昭和4年(1929)には明延と神子畑を結ぶ明神電車(鉱山鉄道)が完成します。
明延鉱山の錫鉱石を神子畑選鉱場に運び、錫・銅・亜鉛などに分離、さらに生野鉱山生野製錬所で製錬して不純物を取り除いた錫が製品(インゴット)となりました。
「鉱石の道」は明延・神子畑・生野という3鉱山が錫の生産を通じて結ばれた産業の道に由来しています。明延・神子畑・生野が錫鉱石の採掘・選鉱・製錬によって国内最大量の錫を生産するコンビナートとなりました。

生野鉱山本部前の馬車道

生野鉱山本部前の馬車道

当時の様子を体験できる明延鉱山

当時の様子を体験できる明延鉱山

明延から神子畑に錫鉱石を運んだ名神電車

明延から神子畑に錫鉱石を運んだ名神電車

【日本を代表する鉱山王国】

但馬は「かねほる里」だった。

逸話

明延鉱山は奈良時代に大仏鋳造(752年鋳造)の銅を献上した、生野鉱山は平安時代の大同2年(807年)に発見されたという話が伝わっています。16世紀後半になると世界的な銀経済が発展し、南蛮貿易における日本の主要な輸出品が銀であったことから、日本の鉱山開発が活発になりました。織田信長・豊臣秀吉・徳川家康という天下人は、国を治める「宝の山」として生野鉱山をはじめとする但馬の鉱山群を支配し鉱山開発を進めました。

江戸時代には佐渡金山(新潟県)、石見銀山(島根県)とともに生野銀山は江戸幕府の財政を支えました。徳川家康は、佐渡・石見・生野に奉行所を置いて鉱山開発に力を注ぎました。生野奉行所は、生野だけでなく神子畑・明延・中瀬などの但馬地域の鉱山を管轄しました。

生野銀山は江戸時代を通じて日本最大級の銀山・銅山として栄えました。江戸時代の浮世草子作者である井原西鶴は、『好色一代男』の冒頭の中で「桜もちるに嘆き…、ここに但馬の国かねほる里の辺に…」と書き、主人公は「かねほるさと」と呼ばれた生野銀山の富豪として描かれています。当時は、佐渡金山などの金(小判)が主に東日本で使われ、生野銀山などの銀(丁銀)が西日本で流通しました。「おかね」のことを東日本では「金子(きんす)」、西日本では「ぎんす(銀子)」と呼びました。

2
Episode

日本近代化を支えた四つの鉱山。
【その一】

日本一の錫鉱山明延鉱山(あけのべ)

奈良・東大寺の大仏鋳造の際に、明延産出の銅が使用されたと伝えられる明延鉱山は早くから歴史に登場する鉱山で、安土桃山時代には豊臣秀吉が支配し、江戸時代には幕府の下で生野奉行所の所管とされ、銅山として盛衰を繰り返し、明治5年(1872年)に明治新政府によって官営化され、その後の明治29年(1896年)に三菱合資会社の経営に移ります。

明治33年(1900年)、明延鉱山開発のための調査が開始され、明治42年(1909年)に錫鉱脈が発見されたことから「日本一の錫鉱山」へと発展しました。採掘・選鉱・製錬・輸送などの技術革新によって近代化が促進され、錫の産出量は全国の90%以上となりました。他にも銅・鉛・亜鉛など多くの鉱種を産出した明延鉱山には、全国から「やま男」と呼ばれた鉱山労働者が集まり、最盛期とされる昭和30年(1955年)頃の従業員は1,500人、職員住宅に暮らす世帯数は1,200以上を数え、人口4,000人規模の鉱山町となりました。鉱山が経営するスーパーや総合病院、映画館や遊技場などの娯楽施設など、生活に必要な施設・設備が整備され現代のニュータウンに匹敵する都市として栄えました。

昭和4年(1929年)には明延鉱山の錫鉱石を神子畑選鉱場に運ぶために約6㎞の明神電車軌道が鉱石運搬用として開通し、その後の昭和20年(1947年)には鉱山従業員の通勤用としても利用されるようになりました。昭和24年(1951年)に従業員運搬用に客車が付けられて一般の乗客も利用できるようになり、明延と神子畑の人々の生活を支える鉱山鉄道となりました。昭和27年(1952年)には一日の乗降数を数えやすくするため乗車料金を一円にしたことから「一円電車」の愛称で親しまれました。

明延鉱山の坑道の平面的な広がりは約5K㎡に広がり、深さ約1Km、総延長は約550kmに及びます。昭和62年(1987年)の鉱山閉山の後、旧世谷通洞坑の一部が鉱山学習施設として整備され、近代鉱山の姿を現代に伝える貴重な産業遺産「明延鉱山探検坑道」として展示、公開されています。

一般公開されている明延鉱山探検坑道

一般公開されている明延鉱山探検坑道

社宅が建ち並ぶ明延鉱山町

社宅が建ち並ぶ明延鉱山町

明延から神子畑に錫鉱石を運んだ名神電車

明延から神子畑に錫鉱石を運んだ名神電車

東洋一の選鉱場神子畑鉱山(みこばた)

平安時代に開山したと伝えられ、15世紀から採鉱が盛んになったとされる神子畑鉱山が最も繁栄したのは、明治11年(1878年)から明治37年(1904年)です。明治新政府が生野鉱山周辺を調査した結果、明治11年(1878年)に銀鉱脈が発見され、生野鉱山の支山「加盛山(かせいやま)」として銀の採鉱が開始され、生野に代わる新しい銀山として注目されました。

このため、生野鉱山から鉱山事務所として外国人宿舎(ムーセ旧居)が移築されました。さらに銀鉱石を生野鉱山の製錬所に運ぶため、明治18年(1885年)に神子畑から生野まで馬車道が完成し、明治24年(1891年)には馬車鉄道(鉱山軌道)に改修され、官営鉱山の設備として運営されました。

しかし、明治40年(1887年)以降は鉱脈減少に伴って閉山の危機を迎えます。明治42年(1889年)に明延鉱山で埋蔵量の多い優良な錫鉱脈が発見されたことで、神子畑鉱山は明延鉱山の鉱石を選鉱する「神子畑選鉱場」へと生まれ変わります。選鉱場となった神子畑は大正8年(1919年)に錫の選鉱場を竣工、昭和9年(1934年)には硫銅選鉱場を開設し、昭和15年(1940年)の拡張工事を経て「東洋一」と呼ばれる選鉱施設へと、その規模を大きくしていきます。

選鉱場跡は平成15年(2003年)の調査で、内部階層は延べ22階、幅110m、斜距離165m、高低差75mという壮大な規模が確認されています。昭和62年(1987年)明延鉱山の閉山に伴い神子畑選鉱場も閉鎖しました。神子畑選鉱場は、現在では建屋を撤去して工場跡地にとなっています。しかし、階段状に残る大きなコンクリートの基礎やシックナー(液体中に混じる固体粒子を泥状物として分離する装置)など巨大なコンクリートの構造物が残されており、訪れる人を壮大なスケールで圧倒しています。

また、選鉱場跡には神子畑鉱山事務所として移築された生野鉱山の外国人宿舎であった「ムーセ旧居」が佇み、明治時代の趣を感じながら、さまざまな鉱山の歴史、資料を閲覧することができます。

神子畑への入口、国道429号沿いの神子畑川に神子畑鋳鉄橋があります。この鋳鉄橋は日本に現存する全鋳鉄製の橋としては最古のもので、国指定重要文化財となっています。神子畑鉱山の銀鉱石を生野に運ぶために明治政府が作ったもので、設計から施工までを全て日本人が行いました。美しく組まれた「らん干」や「たて格子」の横材には日本的な特徴を見ることができ、日本の近代化を目指して駆け抜けた明治時代の情熱を感じる歴史的価値の高い貴著な文化財となっています。

東洋一といわれた在りし日の神子畑選鉱場

東洋一といわれた在りし日の神子畑選鉱場

旧神子畑鉱山事務所(ムーセ旧居)

旧神子畑鉱山事務所(ムーセ旧居)

液体中に混じる固体粒子を泥状物として分離するシックナー

液体中に混じる固体粒子を泥状物として分離するシックナー

日本最古の鋳鉄橋「神子畑鋳鉄橋」

日本最古の鋳鉄橋「神子畑鋳鉄橋」

3
Episode

日本近代化を支えた四つの鉱山。
【その二】

日本最初の官営鉱山生野鉱山(いくの)

日本でも有数の銀山として知られる生野鉱山は、大同2年(807年)に開坑したと伝えられ、「銀山旧記」によれば、天文11年(1542年)に城山の南表で銀鉱脈が発見されたのをきっかけに但馬守護・山名祐豊が石見銀山より当時の先進技術を導入して採掘を始めたと記されています。

その後も山名祐豊から織田信長、豊臣秀吉、徳川家康へと経営が移管し、時の支配者の直轄地として開発が盛んに行われました。生野で採掘された銀は朝鮮の綿布や中国の絹と交換貿易されるなど、南蛮貿易における日本の代表的な輸出品として海外からも注目を受けました。東日本では金、西日本では銀が貨幣として使われ、天下の台所・大坂の貨幣経済や文化にも大きな影響を与えることとなりました。

明治元年(1868年)9月、生野鉱山は日本初の官営鉱山となり日本の近代化を牽引する模範鉱山としての役割を与えられます。生野鉱山の発展に多大な貢献をした、お雇い外国人である鉱山技師ジャン=フランソワ・コワニエと薩摩出身の鉱山局長・朝倉盛明は世界に誇る壮大な鉱山開発を計画し、西洋から最新の鉱山設備を導入し、明治9年(1876年)、世界有数の近代的な鉱山工場群を誕生させます。

その後、生野鉱山は明治22年(1889年)に宮内省御料局の所轄となり皇室財産に編入。ドイツのフライベルク鉱山大学で学んだ大島道太郎が生野鉱山に着任し、生野鉱山群の技術革新を進めました。明治29年(1896年)、三菱合資会社へ経営が譲渡され、閉山となる昭和48年(1973年)まで、日本の鉱業振興の中核を担いました。生野鉱山は、最盛期の昭和30年(1955年)の人口は1万1083人を数え、操業時の坑道は深さ880m、総延長は約350㎞、採鉱した鉱石の種類は70種以上にも及びました。

生野には、現在も鉱山施設やトロッコ軌道跡(鉱山鉄道)など数多くの産業遺産が残っており、一部が史跡生野銀山(シルバー生野)の観光坑道として一般公開されています。

生野鉱山全景

生野鉱山全景

史跡 生野銀山の観光坑道

史跡 生野銀山の観光坑道

石組みで築造された観光坑道入り口

石組みで築造された観光坑道入り口

日本一の自然金とアンチモン中瀬鉱山(なかぜ)

中瀬金山は天正元年(1573年)、八木川で砂金が発見されたことに始まり、その後、豊臣秀吉が所有し、但馬八木城主の別所吉治が代官を務めます。江戸時代になると生野奉行所の直轄鉱山となり、徳川家康が開発に力を注いだことによって近畿地方でも最大の金山町として発展していきます。

明治五年(1872年)には明治政府の所有となり、明治29年(1896年)には生野・神子畑・明延とともに三菱合資会社に経営が移り、大正10年(1921年)まで操業が続けられました。そして、昭和10年(1935年)に日本精鉱株式会社が経営を開始し、日本最大のアンチモン鉱山として発展します。また、新しい金鉱脈を発見し、日本一大きな「自然金」が産出される鉱山として有名になりましたが、昭和四十四年(1969年)に採掘を終了しました。

中瀬鉱山は昭和10年(1935年)~昭和44年(1969年)までの34年間に約8トンの金を産出しており、その量的規模は約400年間で83トンの金を産出した佐渡金山の10%にあたるものです。

中瀬鉱山では現在は採掘は行われていませんが、日本精鉱株式会社は優れた精錬技術を活かして、現在も輸入材料から国内生産の80%に及ぶアンチモン製品を製造しています。

中瀬鉱山は生野、神子畑、明延鉱山に続いて、平成29年(2017年)に「鉱石の道」の鉱山エリアとして認定され、鉱山遺産の継承と地域の活性化への活用が進められています。

中瀬鉱山坑道入り口

中瀬鉱山坑道入り口

昭和初期の中瀬鉱山

昭和初期の中瀬鉱山

4
Epilogue

これからの鉱石の道。

日本の鉱山史を体感する歴史文化ミュージアム

近代化産業遺産「鉱石の道」エリアは、古の頃から日本有数の鉱山として栄え、明治以降は日本の近代化を支えた大鉱山地帯でした。鉱山とその周辺地域には鉱山遺跡や古い町並み、鉱山特有の文化が色濃く残り、日本で唯一、中世から近現代の鉱山の歴史、技術、生活史の変遷をたどることができる「歴史文化ミュージアム」ともいえる地域です。
生野では生野書院や生野鉱山甲社宅などが公開され、神子畑では旧神子畑鉱山事務所(ムーセ旧居)が整備され、明延では一円電車の客車が動態保存されています。町並みの中にも多くの鉱山遺産が残っています。

平成19年(2007年)、「鉱石の道」は「我が国鉱業近代化のモデルとなった生野鉱山などにおける鉱業の歩みを物語る近代化産業遺産群」として経済産業省によって「近代化産業遺産群」の認定を受け、養父市、朝来市、兵庫県、但馬県民局が「鉱石の道推進協議会」を設立。歴史、文化、景観など、「鉱石の道」が持つ価値と魅力を地域の内外へ向けて情報発信をするとともに、それぞれの地域でも鉱山をより身近に体感できる体験行動や、一円電車の体験運行、ボランティアによる町並み散策ガイドなど、様々な活動が現在も進められています。
「鉱石の道」は、日本の近代化の歴史や、今に残る鉱山遺産群をつなぐ道であると同時に、これから当地を訪れる多くの人々が近代化産業遺産や地域の人々、文化と触れ合う「交流の道」として期待されています。

一円電車「くろがね号」の運行

一円電車「くろがね号」の運行

見学会の様子(中瀬金山関所)

見学会の様子(中瀬金山関所)

5
History

鉱石の道 歴史年表

奈良・平安時代(713-807)

和銅6年(713) 生野は播磨の国「埴岡の里」に属し、応神天皇により生野と名付けられる。(播磨風土記より)
天平17年(745)~
天平勝宝4年(752)
東大寺の大仏の鋳造に明延の銅が献上されたと伝わる。
大同2年(807) 生野から銀が発見され、鉱山が始まったと伝わる。

室町時代(1423-1570)

応永30年(1423) 但馬守護・山名時熈が生野城(山城)を築く。
天文11年(1542) 但馬守護・山名祐豊が生野鉱山で本格的に銀の採掘を始める。(銀山旧記より)
永禄12年(1569) 織田信長の命を受け、木下秀吉(豊臣秀吉)が山名祐豊を攻め、生野銀山は信長の支配となる。
元亀元年(1570) 信長が生野に代官所を置き、銀山の支配を開始する。

安土桃山時代(1573-1600)

天正元年(1573) 八木川で砂金が発見され、中瀬鉱山の開発が始まる。
天正10年(1582) 「本能寺の変」が起きる。生野銀山など但馬の鉱山は豊臣秀吉の支配となる。
慶長5年(1600) 「関ヶ原の戦い」が起きる。生野銀山など但馬の鉱山は徳川幕府の支配となる。

江戸時代(1716-1863)

慶長18年(1613) 生野奉行の間宮直元が、大坂冬の陣に生野・明延・中瀬の山師を連れて参戦。
徳川家康は山師に恩賞として「加奉」の称号を賜与。
享保元年(1716) 生野奉行所が代官所に変わり、以降28代の代官が着任する。
天保12年(1841) 代官所内に学問所(尊性堂、後の麗澤官)が開かれる。
文久3年(1863) 生野義拳(生野の変)。勤王倒幕を掲げ農兵2000人により生野代官所を占拠する。

明治時代(1868-1909)

明治 元 年(1868) 生野銀山が日本初の政府の直営鉱山になる。会計官鉱山司生野出張所を設置。
朝倉盛明を中心に仏人技師コワニェら(24人)により鉱山近代化を図る。
明治 3年(1870) 工部省生野出張所となり、翌年に工部省鉱山寮生野支庁と改称。
明治 5年(1872) 神子畑、明延、中瀬の鉱山が官営となる。
明治 9年(1876) 生野鉱山で新工場落成式(工部卿・伊藤博文が出席)。
生野~姫路市飾磨間を結ぶ生野鉱山寮馬車道(銀の馬車道)開通。
明治11年(1878) 神子畑で銀鉱脈を発見。
明治18年(1885) 生野~神子畑間の鉱石運搬専用道路開通(神子畑・羽渕に鋳鉄橋設置)。
工部省から農商務省の所管となり、翌年大蔵省の所管となる。
明治22年(1889) 佐渡鉱山・生野鉱山、大蔵省から宮内省御料局へ所管替え。
明治24年(1891) 生野~神子畑間の馬車道を馬車鉄道(鉱山軌道)に改修。
明治28年(1895) 播但鉄道として飾磨港~生野間49kmが開通。
明治29年(1896) 宮内省による官営を廃止。
佐渡鉱山・生野鉱山を三菱合資会社に払い下げ。
明治34年(1901) 播但鉄道が、神子畑鉱山に近い新井駅まで延伸。
生野銀山に長谷水力発電所を開設。五井竪坑電気捲揚機を新設。
明治42年(1909) 明延で錫鉱脈を発見、日本一の錫鉱山への端緒となる。

大正時代(1913-1922)

大正 2年(1909) 生野鉱山に錫精錬所を開設。
大正 6年(1913) 神子畑鉱山を閉山。
明延鉱山の鉱石を生野へ送る中継地となる。
大正 8年(1919) 明延鉱山の選鉱場を神子畑に建設。
後に日本一の選鉱場に発展。
生野鉱山の金香瀬~本部間に軌間500㎜の軌道で電気機関車を運行。
大正 9年(1920) 生野鉱山の本部と支庫(旧生野駅)間に電気機関車専用軌道を開設。
大正 11年(1922) 生野の銅製錬廃止により、明延鉱山の銅を飾磨港経由で直島精錬所(香川県)に輸送。

昭和時代(1929-1987)

昭和 4年(1929) 明延~神子畑間(約6km)をつなぐ「明神電車線」が開通。
昭和 10年(1935) 日本精鉱株式会社が中瀬鉱山の経営を開始。
昭和25年(1950) 明延鉱山で鉛・亜鉛産出、神子畑選鉱場で選鉱処理。
昭和27年(1952) 明神電車で乗車賃1円の客車運行。「一円電車」を開始。
トラック輸送への転換により神子畑~新井間の専用軌道廃止。
昭和29年(1953) 明延鉱山の桜ヶ丘 ・北星地区にプレコン社宅が完成。その後、多数のプレコン建築を建設。
昭和44年(1969) 中瀬鉱山の採鉱部門廃止(アンチモン製錬は継続)。
昭和48年(1973) 鉱量枯渇等により生野鉱山の採鉱部門廃止(明延の錫製錬は継続)。
昭和60年(1985) 「一円電車」の客車運行廃止。
昭和62年(1987) 明延鉱山廃止、神子畑選鉱場閉鎖。明神電車廃止。

平成時代(1989~2017)

平成元年(1989) 明延鉱山探検坑道(旧世谷通洞抗)オープン。
平成16年(2004) 「鉱石の道」産業遺産活用調査報告で3鉱山エリアを「鉱石の道」と命名。
平成17年(2005) 鉱石の道」観光産業活性化事業計画報告書を策定。
平成19年(2007) 経済産業省の近代化産業遺産群に生野・明延・神子畑の鉱山関連遺産(通称:鉱石の道)が認定される。産業遺産を活用した地域活性化を推進する。
「鉱石の道推進協議会」設立。
平成22年(2010) 「一円電車」明延線完成。体験乗車会として定期運行が始まる。
平成29年(2017) 中瀬鉱山を鉱石の道に追加認定。
平成29年(2017) 「播但貫く、銀の馬車道 鉱石の道~資源大国日本の記憶をたどる73kmの轍~」として
日本遺産へ認定。

令和時代(2020~)

令和2年(2020) 明神電車車両8両が兵庫県重要文化財指定。
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