日本遺産「播但貫く、銀の馬車道 鉱石の道」~資源大国日本の記憶をたどる73kmの轍~

鉱石の道 関連遺産

Associated Heritages

生野エリア

  • 生野銀山

    生野銀山

    大同2年開坑と伝えられる生野銀山。昭和48年の閉山後、金香瀬(かながせ)鉱区の坑道を観光施設として公開。
    全長1kmの観光坑道は全国屈指の規模。近代坑道だけでなく、ノミで堀った江戸時代の坑道に触れることができる。

  • カラミ石

    カラミ石

    明治時代、生野鉱山が近代技術の導入により金銀銅の産出量が増大、同時に製錬時に出る鉱滓(カス)の処分が大きな問題となっていく中、立方体に固めて建材として売り出したところ町中に普及した。このブロックは「カラミ石」と呼ばれ、現在も石垣や塀、家の基礎など生野町の各所で見ることができる。

  • 生野ハヤシライス

    生野ハヤシライス

    昭和30年代、生野鉱山は最盛期を迎え、全国から集まる鉱山職員や坑員家族向けの社宅が数多く作られた。その社宅で当時ブームになったのが「ハヤシライス」。現在、「生野ハヤシライス」として町内のレストランや喫茶店でオリジナルのハヤシライスが食べられるほか、昭和30年代、40年代の味を再現したレトルト商品なども販売されている。

  • 生野書院

    生野書院

    大正時代の商家を改修した資料館で、生野町絵図や銀山旧記など、生野鉱山に関わる様々な資料を展示している。入口の門は、初代生野鉱山局長を務めた朝倉盛明の官舎正門を移築したものである。

  • 旧生野鉱山職員宿舎(甲社宅)

    旧生野鉱山職員宿舎(甲社宅)

    生野鉱山に赴任した官吏・技術者のための官舎として建てられた建物群で6棟が現存する。現在は旧生野鉱山職員宿舎として整備・公開されている。官営生野鉱山時代の住宅施設は、甲7号、8号、9号で、明治9年の建築と推定されている。官営の時代から三菱に経営が移った後も、甲社宅の名称で使用されていた。この宿舎は近代日本の庶民住宅のルーツともいえ、重要な歴史的意義を持っている。現在は志村喬記念館としても活用されている。

  • 旧生野警察署

    旧生野警察署

    明治19年に地元の大工である杉浦嘉作が建設した。生野にあったフランス人技師の館をまねた左右対称の擬洋風建築で、正面の軒瓦下には警察の紋章と生野の旧町章が残されている。大正3年に警察署新庁舎が建設されたことから、大正4年に生野町の所有地となり、現在まで公民館として使用されている。

  • 鉱山専用軌道路床(トロッコ道)

    鉱山専用軌道路床(トロッコ道)

    姫宮神社から鍛冶屋町にかけての市川右岸沿いに鉱石輸送用の軌道路床が残っている。生野鉱山本部から貨物専用の旧生野駅をむすぶ軌道で、大正9年に電気機関車が導入された際に、従来の本町筋道路の軌道を廃し、新たに建設された。現在は観光用に軌道が設置され、トロッコ道として親しまれている。

神子畑エリア

  • 岩津ネギ

    岩津ネギ

    江戸時代、幕府の直轄地であった生野銀山において、当時の代官が坑夫の冬用野菜として京都の九条ネギを近隣地に奨励。気候や地質が合い絶品のネギが生まれた。いつしか栽培地の地名をとり「岩津ねぎ」とよばれ、「下仁田ねぎ」「万能ねぎ」とならぶ日本三大ネギの一つに選定されている。

  • シックナー

    シックナー

    大正8年、神子畑鉱山は閉山後、明延鉱山の選鉱場として生まれ変わり、最新の技術と東洋一の規模を誇った。
    この「シックナー」は選鉱する過程において液体から微粒子を分離する「装置」であるが、その巨大で独特の姿から全国よりファンが訪れる人気の撮影スポットとなっている。

  • 神子畑小学校跡(体育館)

    神子畑小学校跡(体育館)

    神子畑選鉱場の西側に隣接して、神子畑小学校の体育館が残る。昭和37年建築のプレキャストコンクリート建築。体育館の前には神子畑小学校跡の石柱がある。西側には運動場があり大きなイチョウがある。明治33年の創立で、最盛期には200人以上の児童が通っていたが、昭和47年4月1日に山口小学校に統合した。体育館の西側の後方には神子畑鉱山の山神社跡がある。

  • 鳥の奥ダム

    鳥の奥ダム

    神子畑選鉱場に運ばれた鉱石は、選鉱されて10%の精鉱と、90%の廃さいに分けられる。この廃さいを捨てたのが間歩谷ダムと鳥の奥ダムである。鳥の奥ダムは神子畑地区の入口にあり、県道からよく見える大きなダムである。谷筋を埋め立てた大きなズリ捨て場が、7段に積み重なって見える。昭和30年代までは軌間500ミリの軌道が神子畑選鉱場から鳥の奥ダムまで繋がっていた。

明延エリア

  • 明延 北星長屋社宅

    明延 北星長屋社宅

    昭和8年から昭和13年にかけて建てられた木造の長屋社宅。当初社宅には風呂場はなく、北星共同浴場を利用した。電気や水道は鉱山会社によって完備され、電気料金が無料であったことから、早くから電気製品が普及した。最盛期の昭和30年代には明延全体で780戸の社宅があり、4,000人以上の住民が生活した。イベント等で内部を公開。

  • 明延 北星プレコン社宅

    明延 北星プレコン社宅

    昭和29年に北星地区に建てられた、当時最新の「プレキャストコンクリート工法」による社宅で、日本最古級のプレコン建築。明延では北星地区に初めて8棟のプレコン社宅が建てられ、当時の姿を伝える鉱員社宅は全国的にも珍しい。プレコン社宅には、隆盛を極めた鉱山都市明延の先進性や都市の近代化を見ることができる。

  • 明延鉱山学習館(旧鉱山事務所)

    明延鉱山学習館(旧鉱山事務所)

    かつての世谷通洞坑を管轄した西部採鉱課事務所を、現在は鉱山学習館として整備されている。館内には坑道の模型や多様な鉱山道具、鉱石、写真など、明延鉱山に関わる資料を展示している。明延鉱山探検坑道と同時に見学可能。

  • 明延鉱山探検坑道(旧世谷通洞坑)

    明延鉱山探検坑道(旧世谷通洞坑)

    実際に鉱山として稼働し、鉱石が掘り出された坑道で、現在は鉱山学習施設として整備されている。見学できる部分は約650mで、坑内には車両系鉱山機械や削岩機などを多数展示している。明延鉱山の大動脈である大寿立坑(エレベーター)やむき出しの岩盤や地面のレール、張り巡らされた配管など、稼働していた当時の坑道を体感できる。

  • 明盛共同浴場「第一浴場」建屋

    明盛共同浴場「第一浴場」建屋

    明延地区には鉱山従業員やその家族の憩いの場として6か所に共同浴場があり、鉱山が経営するため入浴料は無料だった。明盛共同浴場「第一浴場」は、明延に最初に建築された共同浴場で、唯一現存している。構造は木造平屋建、亜鉛波鉄板葺き。現在は「明延ミュージアム」として不定期公開している。

  • 両松寺の梵鐘

    両松寺の梵鐘

    両松寺の梵鐘には、豊臣時代の文禄5年(1595)の銘文が刻まれる。明延産出の銅を使って鋳造され、明延の繁栄を祈願して奉納された。梵鐘には年号の他「但州養父郡大屋庄明延銀山」などの文字が残る。太平洋戦争の際の金属類特別回収において保存申請が認可され、特別に供出を免れた。年号が明記された明延鉱山を記す最古の資料である。

中瀬エリア

  • 中瀬金山町の地割

    中瀬金山町の地割

    中瀬金山町は豊臣秀吉から代官に任命された八木城主別所吉治が整備した。その後、徳川家康から生野奉行に任命された間宮直元が鉱山都市として再整備したと考えている。江戸時代の金山町の様子を伝える絵図「中瀬金山旧見取図」と現在の地形を比べると、寺院や道路、水路など位置関係がよく照合でき、金山町の地割が現在までよく残っていることを確認できる。

  • 陣屋(金山役所)跡

    陣屋(金山役所)跡

    江戸時代、中瀬金山は幕府直轄地の鉱山として生野奉行所(のちに生野代官所)により治められた。代官所の役人が執務に当たったところが陣屋(金山役所)で、集落北側の台地にあった。役人の屋敷や米蔵などがあったとされ、発掘調査では敷地の造成の痕跡や江戸時代の遺物が確認されている。また、南側の石垣は陣屋の石垣の一部であると考えられる。

  • 中瀬金山関所

    中瀬金山関所

    中瀬金山町を紹介する交流拠点施設。鉱石や鉱山道具、古文書、写真など、中瀬鉱山に関わる資料を展示している。敷地内のトロッコ広場には、中瀬鉱山で昭和44年まで実際に活躍したバッテリー機関車と鉱石を運んだトロッコがある。

  • 鉱山臼

    鉱山臼

    中瀬地区の石垣などに、鉱石から金を取り出すために使用された鉱山臼を見ることができる。鉱石から金を取り出すには、鉱石を微粉化し、比重により選別するが、鉱山臼は戦国時代から江戸時代を通し、鉱石の紛成作業に欠かせない道具であった。町中に今も残る鉱山臼から、近代化する前の中瀬金山町の営みを見ることができる。

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